12月1日

高山陣屋の雪吊り

上の写真は高山陣屋前広場の雪吊りの様子です。毎年の今頃、市内の造園会社に委託して実施されるようです。我が家でも庭木の雪囲いをやりますが、さすがに職人さんの仕事は出来が違うなと感心させられます。見てのとおり、雪は全く積もっていません(笑)。

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前回のブログで「アジア・太平洋戦争」に突入した経緯などについて紹介しました。今回はその顛末としての「極東国際軍事裁判(東京裁判)」と天皇の戦争責任について勉強してみました。

[図説]東京裁判/平塚柾緒(株式会社河出書房新社)

【図説】東京裁判

昭和21年5月3日から昭和23年11月12日の刑の宣告まで、約二年半にわたって行われた東京裁判。法廷が設置されたのは新宿区の市ヶ谷にあった旧陸軍士官学校。現在は防衛省が移転している。裁判の対象となった期間は満州事変からアジア・太平洋戦争までの15年間。ナチスを裁いたドイツのニュルンベルク裁判とともに「世紀の裁判」と呼ばれ、世界中から注目された裁判であると紹介されています。

起訴されたのは首相の東条英機をはじめとするA級戦犯28名。病死などによる3名を除く25名全員が有罪となり、東条英機以下7名が死刑を宣告され絞首刑となった。東京裁判ではアメリカによる戦後日本の統治を円滑に進めるために、「天皇の戦争責任を問わない」「アメリカによる都市空襲や原爆投下の罪を審理の対象としない」などアメリカの都合のいいように進められた裁判であるといいます。東京裁判が「勝者の裁き」と呼ばれるゆえんであるとも。

東京裁判は私たち日本国民にとって良い面もありました。それは満州事変以降、軍部によって国民に伝えられてきた嘘が次々と白日の下にさらされたこと。軍部は国民を偽っていた。張作霖爆殺事件や柳条湖爆破事件が、開戦の機を覗う日本軍の仕業であったことも、東南アジアにおいて日本軍の残虐行為が繰り返されたことも、国民は東京裁判によって知ることができました。

東京裁判において、戦勝国11人の判事の対応も一律だったわけではないと紹介されています。ラダ・ビノード・パール判事(インド)は、この裁判を「勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する、非法・不法の復讐のプロパガンダに過ぎない。」と批判し、全員を無罪とするよう求めました。また、バーナード・V・A・レーリンク判事(オランダ)は、「東京裁判の管轄はアジア・太平洋戦争に限定すべきであって、すでに当事国の間で休戦協定が成立している紛争は管轄外である。」と訴えました。しかしこれらの少数意見が判決に反映されることはなかったようです。

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昭和天皇の戦争責任/井上清(株式会社明石書店)

昭和天皇の戦争責任

東京裁判で裁判長を務めたウエッブ判事(オーストラリア)は、昭和天皇に戦争責任があると私見を述べたと紹介されています。しかし天皇の戦争責任が問われることはなかった。その理由について「合衆国及び他の連合国政府の間における高い政治的レベルの間で決められた。」と語ったという。当時、東京裁判の判決を評価したニューヨーク・タイムズの記事が紹介されています(以下にそのまま掲載)。

「東京裁判の被告席には、欠席者が一人あった。それは天皇である。天皇は裁判にかけられないことになり、法廷の権限外に置かれることになったが、これがよかったかどうかは、未来のみが答えるであろう。この決定により人命が救われ、占領をより容易にし、また日本の民主化が容易になったとすれば、それは賢明な措置だったかもしれない。いずれにしてもこれは未来に待たなければならない。」

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法廷で裁かれる日本の戦争責任/瑞慶山茂(株式会社高文研)

日本の戦争責任

戦争責任について、筆者は次のように整理しています。「戦争責任とは加害者責任のことを示す。」そしてこの書籍の発行にあたって、「加害者である日本が、国家として国内外の一般民間戦争被害者に対して謝罪と償いをすることから和解が生れ、国内外の和解が礎となり恒久平和が生れる。」とあり、加害国(日本)と被害国との相互理解と、それによる恒久平和の実現に役立てることを目指すとしています。この書籍によると、日本はアジア各国の2千万人を超える住民を殺戮・虐殺したと指摘しています。自国民に対してさえ3百万人を超える国民を戦渦に追い込み死亡させたとなっています。

この書籍でいう「謝罪と償い」はどのようにして果たされるべきなのでしょうか。金銭的な賠償に応じることでしょうか。学校教育における戦後教育の充実でしょうか。だとしたら、なぜこれまでにそれらは実現しなかったのか。そこを知りたいと思うのは私だけでしょうか。今やこれらは外交問題になっており、素人判断で前進させられる問題ではありません。しかし、こういった忌まわしい事実があったということを、国民として正しく理解しておく必要があると思います。

この書籍では、「戦後世代の戦争責任」についても触れています。「世代を異にするとしても、日本国に日本人として日本民族の連続性の中に生まれ、生きて生活している以上は、前世代の同胞の行為から生じた「資産」も「責任」も自動的に「相続」される。この戦後世代の責任は、個人として直接的に賠償責任を負うわけではなく、国家に対し国家責任を履行させるための個人責任を指す。」

国家の戦争責任を私たちは国民の一人として知らなければなりません。それが最初の一歩ではないでしょうか。観光事業などに向けて「おもてなし」を口にすることが悪いことだとは思いません。が、他人に迷惑かけておいて、そのお詫びも補償もないがしろにしておいて、金儲けのときだけ笑顔を振りまくのはいかがなものかと思うのです。

介護職員の不足を補うため、来春から外国人技能実習制度を導入することが決められたという記事が、10月25日付の毎日新聞に載っていました。この制度は既に農林漁業や製造業などで採用されてきました。こういった制度を利用して日本で就業する戦後生まれの外国人が増えていく中、労働環境などの行き違いが原因で日本を嫌いな国と認識するようなことが起きなければいいがと心配します。そして日本の若者たちが、これらの就業者やその母国に対して蔑(さげすみ)のまなざしを向けることがないことを祈ります。

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11月26日、大阪市長がサンフランシスコとの姉妹都市契約の解消を発表しました。キッカケはサンフランシスコ市長が大阪市長の警告を無視して、少女像の寄贈を働きかけた中国系市民団体からの申し入れを受け入れ、その設置を承認したこと。この事件も国の戦後責任があいまいなまま放置された影響の現れと考えます。大阪市長はよほど頭に血が上ったのでしょうか。姉妹都市契約の解消は冷静さを欠いた行為でしかないと思います。

サンフランシスコは井上靖の長編小説「わだつみ」の舞台となった都市です。この小説は、明治40年代に主人公の七尾桑一郎が両親を追って桑港(サンフランシスコ)に移住する物語です。すでに中国系(支那人)や朝鮮系の人々が多く移住しており、日本人は移住者として後発の少数民族に甘んじなければならなかった。やがて支那人や朝鮮系の移住者の働きかけもあって、「排日土地法」がサンフランシスコ議会で承認されるなど日本人移住者は苦しい立場に立たされた。ついにサンフランシスコでの生活を諦め、帰国する日本人が増えていった(その後、新しい移住先としてブラジルが浮上してくる)。

こういった明治時代に私たちの祖先が味わった苦渋を、この時代を生きる私たちも味わうことになるのでしょうか。大阪市長には「非常に残念である。」というコメントの発表で済ますという選択肢もあったのではないかと思うのですが。現在もサンフランシスコに暮らしている日本人たちは、どんな心境でいるのでしょうか。

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